法然上人と浄土宗
浄土宗を開かれた法然上人(幼名を勢至丸)は、長承2年(1133年)現在の岡山県に豪族の子として生まれました。
9歳の時、父を夜襲で失い、僧侶であった叔父観覚の元で修行勉学に励みました。
15歳(一説に13歳)で比叡山に上った勢至丸は、出家し、名を法然房源空と改め、「智慧第一」と言われるまでに勉学に励みました。
しかし、上人は「どうしたら、煩悩に迷い、来世に不安をもつ人々を救えるだろうか」と悩み、膨大な経典を何度も読み返し、「ただひたすら、心から南無阿弥陀仏ととなえて阿弥陀仏におすがりすれば、誰彼の区別なく極楽浄土に往生できる」というお念仏の教えに出会い、浄土宗を開かれました。時に承安5年(1175)春、43歳のことでした。上人は、この時の思いを次のように語っています。

我、浄土宗を立つる心は、凡夫の報士(極楽浄土)に生まれることを示さむためなり(国宝「法然上人行状絵図」第6巻 総本山知恩院蔵)

上人は「智慧第一の法然房」と言われながらも、自らを「愚痴の法然房」と言いうほどの人間観を持っていたのです。上人が選述した「選択本願念仏集」第3章には、仏像や堂塔を作れる人作れない人、智慧才能の優れている人いない人、学問がある人ない人、持戒持律ができる人できない人を比べて、そうでない人が多いだろうと言い、そうした人々を救うのがお念仏であるという人間観が表されてます。

上人の開いたお念仏の教えは、燎原の火のごとく人々に広まりました。しかし、こうした教えに対するの仏教界の反発などから、75歳の時に四国に流罪となり、その後放免されて都へと戻りましたが、建暦2年(1212)1月25日、80歳で安らかに往生されました。